カーペンターズ7つの衝撃真実

拒食症と薬物中毒の壮絶な物語100

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カレン・カーペンターが拒食症になった原因は母親だった?

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カレン・カーペンターの治療を行っていた
ニューヨークの男性心理療法士は



週5日で1年間に渡る治療を行っていたが、
彼女を救うことは出来ませんでした。



拒食症という病気があることを
ティーブン・レヴェンクロンが



小説『鏡の中の少女』(1978年)を発表し
大ベストセラーとなったことで、



1981年にカレン・カーペンターの
心理療法を行うことなるのですが、



二人の出会いがもう少し早ければ
運命の歯車は違っていたかも知れません。



様々なエピソードを分析しながら
カレン・カーペンターが、



恐ろしい心の病に取りつかれたのは、
カーペンター家での育て方に



原因があったのかを
考えていきましょう。


カレン・カーペンターが発した「あたしのママになってよ、お願いだから」


男性心理療法士スティーブン・レヴェンクロンが
提案した90分間の“家族セラピー”の際に、



発せられたカレン・カーペンターの
母親アグネス・カーペンターへの言葉です。



7年にもおよぶ拒食症(神経性食欲不振症)
との闘いの末、



自分が陥っている問題の深刻さを悟った
カレン・カーペンターが両親を前にし、



堪え切れずにすすり泣きながら、
何年ものあいだ抑え込んだ感情を



開放したときに言ったのです。



この言葉が発せられた後に、
心理療法士スティーブン・レヴェンクロンに



促されて母アグネス・カーペンターは、
ソファに座るカレン・カーペンターを



初めて抱きしめました。



カレン・カーペンターもハグやキスを一切しないカーペンター家


アメリカ人は人前でも
ハグやキスを挨拶として行うと



日本人なら思っていると思います。



母アグネス・カーペンターと
父親のハロルド・カーペンターは



愛情豊で、誠実で、誇り高いけれど、
感情を表情や動作に表さなかったのです。



カーペンター一家はハグやキスしたりすることが
けっしてない家族だったのです。



日本人が欧米化していても、
人前で家族がハグしている瞬間を



見たことがありませんし、
母親とキスすることを



想像することも出来ませんでした。



あなたは家族とハグしますか?



キスやハグをしなかったら
親子の愛情がないと言えるでしょうか。



スキンシップがなくても家族の愛情が
あると思っているあなたなら、



カーペンター家の愛情があったことは
信じられるでしょう。




カレン・カーペンターの 母と娘の関係は過保護だった?


カーペンター家では兄リチャード・カーペンターだけが
両親に愛情を注がれていて、



カレン・カーペンターは家族の中で疎外されていたと
誤解されている方もいるようです。



ドラムセットも両親から買って貰っていますし、
家族旅行にも行っています。



カーペンターズとして売れ出した頃に、
ドラムセットの後ろで歌っていた彼女を



前に出て歌うようにみんなが説得にあたっても、
誰の言うことも聞かなかった彼女を



最後に説得に乗り出したのは
母アグネス・カーペンターでした。



母と娘の関係で言えば“過保護”という言葉を
使っているのは、



家族セラピーを行った男性心理療法
ティーブン・レヴェンクロンです。



彼女がヨーロッパ、日本、オーストラリアツアーで
ホテルや楽屋でニードルポイント刺繡をして過ごし、



ニードルポイント刺繡で描いた作品を
額縁におさめたものには



「このロードにいるのはパパとママのおかげです」




と感謝の言葉が書かれています。



カレン・カーペンターを死に追いやった
恐ろしい拒食症(神経性食欲不振症)になった原因が



母親説というのは、
様々なエピソードを調べても



考えにくい説ではないでしょうか





カレン・カーペンターの書いた作文



ニューへィヴンの女学生だった13歳のカレンが、
自分の人生をどう考えているか書いた作文があります。


「わたしの自叙伝」



両親は長いこと女の子の誕生を待ち望んでいた。



そしてついに1950年3月2日、母は女の子を産んだ。



もちろん、わたしのことである。



わたしはコネティカット州ニューヘィヴンにある
グレース・ニューヘィヴン病院でこの世に生を受けた。



うちは5人家族である。



まず父のハロルドだが、職業は印刷工である。



ニューヘィヴン・ボード&カートン社で
五色刷りの印刷機を動かしている。



母のアグネスは普通の主婦だ。



いとこのジョーンは生まれたときから
ずっとわが家で暮らしてきた。



つぎに兄のリチャードだが、
16歳で、



ウィルバー・クロス・ハイスクールに
通っている。



彼は才能あるピアニストだ。



わたしの人生の楽しみは
歩きはじめたときにはじまった。


わたしがはじめて歩いたのは
8か月のとき。



最初の歯が生えたのは7か月のときだが、
この歯が生える期間に苦しみもあじわった。



そのときわたしは口を開け、
以来ずっとおしゃべりである。



最初の言葉は「バイバイ」と「いや」だった。



あるときメリーランド州ボルティモアへ行った。



そのときのことをわたしは
けっして忘れることはないだろう。



それは土曜日の午後のことだった。



わたしは2歳くらいだった。



いとこがブランコにさかさまに
ぶら下がってごらんと言ったので、



わたしはなんだかよくわからずにそうした。



何を思ったのか、
突然兄がわたしをくすぐり、



その結果、わたしは唇にひどい怪我をした。



地面に落ちたときに前歯が
下唇を突き抜けたのだ。



そのほか犬に噛まれたことを除けば、
わたしの幼年時代はとくに変わったこともなかった。



家族に連れられてカナダ、ボルティモア、そのほか
東部の州のいくつかに旅行をしたけれど、



そういう旅先での体験については、
愉快で楽しい旅だったこと以外に



とくに憶えていることはない。



4歳のときに現在も通っている
ネイサン・ヘイルに入学し、



学校生活がはじまった。



この学校での9年間、
全部の先生たちと楽しく過ごし、



愉快なことがたくさんあった。



わたしの趣味はポピュラー・ダンス、
レコード収集、



そして絵を描くことである。



どれもめったにやらないのだが、
すごく好きだ。



1962年には
わたしが描いたポスターが賞を受けた。



今までにうちではたくさんのペットを飼った。



現在かっているペットは1匹で、
スヌーピーという名の犬だ。



スヌーピーはビーグル犬、
あるいはそれに似た種類だが、



とにかくかれはさんざんな目にあった。



まだ生まれて何か月の子犬だったときに
自動車にぶつけられたのである。



ちょうどそのとき、
うちには誰もいなかったので、



わたしは近所の人に獣医さんのところへ
連れていってもらった。



回復の見込みはすごく低かったが、
緊張に満ちた長い1週間ののち、



彼は退院した。



家に帰ってきてからも、
先の見通しはあいかわらず明るくはなかった。



それから1か月後、
スヌーピーはすっかり良くなかった。



わたしの将来の見込みについては
まだよくわからない。



わかっているのは、わたしたちが6月に
カリフォルニアに引っ越すこと。



向こうに行ったら、
看護婦になる勉強もしたいし、



画家にもなりたいとも思っている。


引用『カレン・カーペンター 栄光と悲劇の物語』(株式会社ベネッセコーポレーション




カレン・カーペンターと家族の関係が、
この作文からも良くわかる。



両親が女の子を待ち望んでいたことを、
13歳の彼女が作文に書くということは、



両親の愛情を受けていることを、
感じているからこそでしょう。





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